安井政昭の全豪オープンテニス


安井政昭の全豪オープンテニス

■全豪オープンテニスとは?

全豪オープンテニス(英語:Australian Open)とは、毎年1月後半にオーストラリアのメルボルンで開催される4大国際大会の一つである。主催および運営はテニス・オーストラリアが行う。

■全豪オープンテニスの概要

会場のメルボルン・パークには開閉式の屋根付き競技場であるロッド・レーバー・アリーナを中心に、マーガレット・コート・アリーナを含む26面ものコートが整備されている。2000年にはサブアリーナとしてボーダフォン・アリーナ(現在のハイセンス・アリーナ)が建設され、2つの開閉式の屋根付きスタジアムを設けることになった。会場に開閉式の屋根を設置した大会は全豪オープンが最初である。

本大会は熱中症対策として「エクストリーム・ヒート・ポリシー」(英語:EHP, Extreme Heat Policy)と呼ばれる独自ルールが導入されており、外気温が35度を上回るか、湿球黒球温度が28度を上回った際に、主審が試合開始時間を遅らす事が出来る。条件を満たした場合、ハイセンス・アリーナとロッド・レーバー・アリーナに関しては屋根を閉めて試合が行われる。

男子シングルス部門の優勝者にはノーマン・ブルックス・チャレンジ・カップが、女子シングルス部門の優勝者にはダフネ・アクハースト・メモリアル・カップが、其々の表彰式の際にオーストラリア名物であるコアラのぬいぐるみと共に贈られる。2007年まではカンガルーのぬいぐるみが贈られており、これらは本大会ならではの光景となっている。

全豪オープンは、開催時期の変更も多い大会である。クーヨン・テニスクラブで開かれた時代、1976年までは現在のような1月開催であったが、1977年には、1月と12月、2回開催された。その後、1978年から1985年までは、12月の年末に開催されていた。そして、1987年から、1976年までのような1月開催に戻り、1988年には会場がメルボルン・パークに移転して、現在に至っている。会場移転の決定による開催時期の変更により(1985年12月 → 1987年1月)、「1986年全豪オープン」は開催されなかった。

「シーズン開幕直後・真冬の北半球とは逆の真夏の大会・北半球の欧米諸国からの長時間&長距離の移動と時差」などの要因で、毎年の大会は上位選手の欠場や序盤での敗退が多い。このように、全豪オープンは他の3大会に比べて番狂わせの起こりやすい大会である。

日本でのテレビ放映権はWOWOWが保有している(テレビ東京による民放中継は、2001年まで男女シングルス決勝戦のみ放送があったが、2002年以後は取りやめになった。さらにそれ以前は讀賣テレビ放送を制作局としてNNS系列向けに放映した時代がある)。

■全豪オープンテニスの歴史

1905年 - オーストラリアとニュージーランドの共同大会である「オーストラレージアン・テニス選手権」(Australasian Tennis Championship)として創設。最初は男子シングルス・男子ダブルスの2部門のみで始まった。第1回の男子シングルスはロドニー・ヒース(1884年 - 1936年)が優勝した。
1916年-1918年 - 第一次世界大戦のため、3年間大会開催中止となる。
1922年 - 女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門を創設。第1回の女子シングルスはマーガレット・モールズワース(1894年 - 1985年)が優勝した。
1927年 - 大会名を「オーストラリア選手権」と改称する。
1940年 - この年は1月に大会が行われたが、第二次世界大戦のため1941年-1945年まで開催中止となる。
1969年 - オープン化され、「全豪オープン」となる。開催都市は持ち回りで行われた。
1972年 - メルボルンで固定開催することになり、クーヨン・テニスクラブがその会場となった。
1988年 - 会場をメルボルン・パーク(旧称フリンダース・パーク)に建設したナショナル・テニスセンターに移す。サーフェスも、グラスコートが廃止され、「リバウンド・エース」と呼ばれるハードコートになった。
2002年 - 車いすテニス部門を創設。詳細は全豪オープン。
2008年 - コート面がプレキシクッション(en:Plexicushion)に変更された。
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